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いろは蔵

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「いろは蔵パーク」が誕生した経緯から、開発者が思い描くショッピングモールの新しいカタチ。
酒田市ならではのコミュニティースタイルとは....。
私たちの想いを綴ってまいります。

その土地、その時、その場所が持つ役割―いろは蔵パーク クロニクル―

その土地、その時、
その場所が持つ役割
―いろは蔵パーク クロニクル―

酒田を象徴する山居倉庫エリア、その役割と変遷
この場所に、この建物があること”――私たちが暮らしているまちの風景、地形や土地の使われ方などから、地域の歴史の一端を読み取ることができます。酒田市内を横たわる新井田川、その流れが日本海へと続く川岸に山居倉庫ができたのは130余年前。新たにいろは蔵パーク加わるこのエリアからは、湊町、米どころ酒田の歴史を知ることができます。
 〈1〉“川向こう”の最上川南岸の向酒田(むこうさかた)から、現在の市街地、当酒田(とうさかた)へとまちの中心が移り、酒田三十六人衆によって町の基盤がつくられたのが今から500年ほど前のこと。最初に町割りができたのは、船着き場や倉庫が並んでいた現在の本町界隈と新井田川沿いの河岸八丁といわれた町々で、そこから湊町酒田はつくられていきました。
 〈2〉時代は下って江戸時代になると、河村瑞賢が開いた西廻り航路によって、酒田湊は米の積出港となり「諸国往還の津」として全国各地の船が出入りするように。最上川水運も発達して、酒田は物流の拠点となります。江戸時代の古い町絵図には、川沿いに蔵が建ち並ぶ様子が見られます。一帯を「上蔵」といい、日和山の辺りにあった「下蔵」は、後に火災や河川の氾濫によって上蔵のあるエリアに移築されます。これらは庄内藩が所有する総称「新井田蔵」で、48の戸前を持ったことから、俗に「いろは四十八蔵」と呼ばれました。

江戸前期、文政3(1820)年作成の酒田の町絵図。古い町並みを描いた絵図では最古とされる。川沿いに「上蔵」「山形蔵」「肴蔵」「下蔵」などが点在。上蔵と下蔵は庄内藩が酒田に置いた米蔵で、これらを総称して「新井田蔵(いろは蔵)」といった。赤線で囲んだ部分は「明暦の大火」(1656年)で延焼したところで、広範囲に被害が及んだことが分かる。
※「酒田町絵図」伊東家文書/酒田文化資料館光丘文庫蔵

新井田川沿いにあった庄内藩の年貢米を納めていた蔵の見取り図。内蔵、六ツ蔵、三ツ蔵それぞれに「平田」「狩川」などの納め先が定められ、一帯を総称して新井田蔵、いろは蔵と呼んだ。
※「六ツ御囲、三ツ御囲、内御囲絵図」文政5年(写)

〈3〉さらに時代は下って明治時代、租税が米穀から金納に変わると、米は商品としての価値を強め、各地に米の商会所や取引所が設置されました。酒田でも明治26年に酒田米穀取引所が開設、附属倉庫として7つの蔵が建てられます。これが山居倉庫の創始で、米の輸送に利便性のいい酒田港に近いこの場所に、のちに15棟の蔵が軒を連ねました。こうして酒田の米は、新井田“いろは”蔵と山居倉庫を主に厳重に品質が管理され、良質な米として東京や大阪にまでその名を知らしめました。

明治10年代の新井田橋と、奥に見えるのが新井田(いろは)蔵

明治維新後、新井田蔵は官有後、払い下げによって所有者が変わり本間家となって「新井田米庫」として使用されましたが、明治27年の庄内地震で全焼。倉庫群は数日にわたって燃え続けたと伝えられています。蔵の機能は山居倉庫へと移り、庄内藩時代から続いた新井田川沿いの米蔵は一つの時代を終えることになりました。

明治初期の酒田。焼失する前の「イロハ蔵」が描かれている。
※「酒田港全図」明治17年(個人蔵)

※三矢弘毅画「山居倉庫絵図」明治43年(酒田市蔵)

酒田を象徴する山居倉庫エリア、その役割と変遷
新井田蔵が姿を消してしばらくたった頃、本間家は跡地を酒田へ寄贈、学校が建てられました。のちの山形県立酒田商業高等学校です。 明治時代にさまざまな学校ができていく中で、湊町酒田は商業地として発展した歴史から、商業学校の設立を求める声が多く、町議会でも長年にわたって提議されていました。その念願かなって明治40年、酒田町立商業補習学校が開校(校舎は酒田尋常高等小学校に付設)。大正6年、乙種から甲種酒田商業学校へと昇格した年、本間家七代光輝が新井田米庫の跡地を校舎新築にと寄贈し、かつての米蔵は、学び舎へと姿を変えました。校舎は塗りを施し、立派な門柱を構え、若者たちの羨望を集めたといいます。

酒田商業学校が、新井田米蔵の跡地にできて間もない頃の絵図。図には「商業学校」「本間家 新井田農場 旧いろは倉庫」の文字が並ぶ。
※「酒田市街全図」大正7年(個人蔵)

※三矢弘毅画「山居倉庫絵図」明治43年(酒田市蔵)

商業学校はその後、戦時下の変遷を経て、昭和37年に山形県立酒田商業高校に改名。平成23年に山形県立酒田光陵高等学校へと統合され、平成26年に閉校するまでの100余年にわたって、多彩な卒業生を世に送り出しました。

酒田いにしへ遠きより 天(そら)うつ波の日本海
潮をわけて貿易の 道を開きし誉の地
われらの校舎たつところ

――酒田商業高等学校 校歌(土井晩翠作詞、山田耕筰作曲)より

酒田商業高等学校の閉校後、校舎も校庭もそのままに過ぎていく中、令和3年に市が「酒田商業高等学校跡地活用基本計画」を策定。湊町酒田のはじまりの場所であり象徴でもあるこのエリアを「地元の手で拓き、ここから、これからのまちを創っていきたい」という熱意のもとに有志が集まり、新しい時代の商業スペース「いろは蔵パーク」の建設へとつながっていきます。
あらためて、いろは蔵パークとは....
かつての米蔵の面影は対をなす山居倉庫に映し、高校があった記憶はケヤキの古木に託し、米蔵から学び舎、そして「地域の生活拠点」へ――。市内の中心部と観光地と住宅地のちょうど境となるエリアに「いろは蔵パーク」は敷地面積6,400坪の施設として誕生します。

いろは蔵パークは、商業施設として「衣食住」を提供し地域の生活基盤を支えるだけではなく、人が集まり、出会い、交流とにぎわいが生まれる場としての機能も持ち合わせています。
【DAILY(日常性)+ LOCAL(地域性)+ SPECIAL(専門性)】
これらのニーズに根差して、まちづくり、防災、ヘルスケア、子育て、商品開発など多様な機能を集約し、生活の利便性の向上を図る、その要素となるのがパーク内のテナントです。

地元で長く親しまれてきたスーパーマーケット「ト一屋」をはじめ、酒田のいいものセレクトショップ「酒田夢の倶楽」は山居倉庫から移転。また、“イカのまち酒田”を味わえる「イカ恋食堂ごはん亭」は酒田港SAKATANTO店の新展開。食べる・つくるを通して交流を生む酒田天然ガス㈱のキッチンスタジオ「iGot(イゴット)」、地域の人たちの健康な生活に寄り添う「カイエイ薬局」。こうした地元の企業に加えて、生活の利便性向上に即し、日常のワクワク感につながる「無印良品」「JINS」「カルディ」が東北でも屈指の施設面積や特殊仕様でパークを構成します。
「往古来今―おうこらいこん―」に込めた願い
いろは蔵パークの基本理念の「往古来今」は、過ぎた時と、今そしてこれからを意味します。地続きの歴史の上に新しい場をつくることは、地域が未来に向けて変わっていく、その挑戦でもあります。人口減少という地域の生き残りの問題に直面している今、地元の力を集めて「自分たちのまちは自分たちがつくる」という志を共有できる場をつくり、賑わいを再生していきたい。そのためには、懐古主義も、現実派も、未来志向も、みんなが同じまちにいることが大切で、それぞれが考える“いいまち”を、意見を交わすことでつくっていきたいと考えています。日常の衣食住の物々を扱うだけではなく、出会いや楽しみといった目には見えないもの、その人にとっての価値が見つかる場所に。いろは蔵パークが地域の人たちの生活と人生を輝かせる場となることを心から願っています。混迷を深めていく時代、三十六人衆をはじめとする先人たちの勇気と知恵にあふれた「自治と自由の精神」を手本に、将来の遺構として残るものができたら、私たちも本懐とするところです。私たちが大好きなまちの未来を、いろは蔵パークから。

参考資料=『ジュニア版 酒田の歴史』p72 湊町酒田、『酒田市史 改訂版・上巻』P290(三)米蔵と蔵宿 ほか